BPM120
大きなプロジェクトがひと段落し、その日は部署内の打ち上げだった。
打ち上げに参加するのに慣れていない私は、連日の徹夜から解放された喜びを仲間と分かち合おうというよりも、早く帰って眠りにつきたいという気持ちの方が優っていた。
会社からほど近い居酒屋に向かう途中、開発部の8人と軽く話しながら列をなして歩く。
後輩の三上ちゃんが、まだ酒も入っていないのに私の腕に絡みついてきた。
「やっと終わりましたね〜!てか打ち上げってより早く帰りたくないですか?」
「まじで帰りたいよね。でも部長の話とかも面白いから聞いてみたいしどうしよっかな」
「センパイは真面目だなーっ」
三上ちゃんは疲労が溜まると逆にテンションが上がるタイプらしく、歩くテンポに合わせて私の腕を両手で摑んで振り回している。
私はその度にふらつき、パンプスの中で体重をかけられ潰される小指から意識を逸らすのに必死だった。
「あのさー、あとで早めに2人で上がってどっかで飲み直す?…」
言い終わる前に先頭にいた後藤主任が
「ここですよー!」と声を掛けてきた。
「はーい!」
私の腕からはなれると、三上ちゃんは颯爽と居酒屋の入り口の方に向かっていった。
私のか細い声は届かなかったようだ。
階段を降り、地下空間へ。
都内の路地にある小さな入り口からは想像がつかないほど店内は意外と広く、
テーブル席十数席と、奥は10畳ほどのお座敷になっていた。
後藤主任が予約を取ってくれていたようで、私達はスムーズにお座敷の席へと案内された。
ぼんやりと入ってきてしまったが、こういう時一番困るのがなんといっても席順だ。
とりあえず部長と主任は上座、というのは決まっていたが、あとは特に役職もなく、年も近いメンバーなので、自ずと仲の良いグループ、あるいはキャラの立つ者から席が決まっていく。
なんとなく、私は三上ちゃんと近めの席に座ればいいかと思っていたが、何故か三上ちゃんは既に後藤主任の隣にさりげなく座っていた。
三上ちゃんはうちの部署内でも一番可愛いし、こういう飲み会の場でも気遣いがうまい。私情の絡みはあったとて、あのポジションは間違いなく彼女に適任だろう。
私はその光景を見て0.3秒くらいでそう判断すると、軽くふうとため息をして、空いた席に座った。
周りは男性社員ばかりだったが、顏見知りではあるし、なんとかうまくこなして、2時間くらいで早めに上がろうと割り切った。
そう考えていると、目の前にタブレットが突き出された。
「町田さんは何飲む?」
左隣の米村さんがメニューを渡してくれたのだ。
タブレット内には既に米村さんの入れた飲み物が登録されている。
「当店自慢!激安ドでかチューハイ」
私はソフトドリンクの欄へ飛んでウーロン茶をタップすると、右隣の吉井さんに渡した。
吉井さんも「さんきゅ!」と言ってメニューを手に取るとチューハイを頼んだ。
「町田さんはソフドリかー」
「あ…はい。」
「うんうん。最近そういう人多いよね。うちの部署はたまたま酒飲みばっかだけど。」
吉井さんの気遣いが身に染みる。
米村さんだって徹夜明けで疲れてるだろうにああもさりげなくメニューを回せるっていうのに、私は、本当自分のことしか考えていないどうしようもない人間だな。
そんな考えがぼんやりと浮かび、振り払ってはまた浮かんできた。
「今日はあとから第1営業部の子が來るよ」
右端の上座にいる部長の声が聞こえた。
左端のこの席では、結局部長の話も聞けないだろうな。
それにしても何故第1から?
「ああ、木野さんのことだよね。今度うちの部署に異動なんだよ」
米村さんが教えてくれた。
程なくして飲み物と誰かが頼んでくれていたサラダが運ばれてきた。
飲み物を全員に渡し、部長の乾杯!の一言に合わせ皆がジョッキを掲げる。
ちらりと覗いたら三上ちゃんも生ビールだった。
1人ソフトドリンクの私はなんとなく肩身が狹い。
米村さんのドでかジョッキと私のソフドリグラスがガチャンとぶつかり、若干チューハイが溢れた。
近場の人とぶつけるのかぶつけないのかハッキリしない乾杯を苦笑いと共に送り、皆が飲み始めるタイミングに合わせて自分もグラスに口をつける。
冷たくて爽やかなウーロン茶が喉を通り、疲れ切った五臓六腑に染み渡っていく。
他の皆と同じようにカーッタマランという顏をしたいくらいの心地よさだったが、やめた。特にウケ狙いのキャラでもないし。
程なくしてサラダが出てきた。
私は入社2年目になっても、サラダの仕分け方の所作を自分のものにできていない。
「私が分けます!」と素早く名乗り出るタイミングはとうに過ぎ、なんとなく人数分の取り皿も各々に行き渡っているので、
そこからわざわざ人の取り皿を奪ってまで分けるのもなんだかおかしいし、かといって自分の分だけ真っ先に取り分けるという行為もハイリスクだ。
町田さんに分けられたサラダなんか食べたくないと思っている社員も中にはいるかもしれない。
人の好き嫌いは自由だから、その辺も尊重したい。
そう思っているうちに、向かいの長谷川さんがおもむろに手を伸ばしてトングを摑み、自分のサラダをさっと取り分けてしまった。
しかも4人分に対して2個しかないトマトもしっかりと確保して。
(す、すごい勇気だ…!)
長谷川さんは特に部署内では目立つタイプではなかったが、トマトを我がものにした彼を誰も責めることなく、それを機に皆、いそいそとサラダや他の料理を自分の分だけ取り分け始めた。
(ゆとり世代に生まれてよかったー!)
感激しながら、私も自分の分のサラダと、ポテトフライを取って自分の前に皿を置いた。
居酒屋の食事は好きなものを取れるので野菜中心に食べられるし、緊張もあるため意外と少食で済む。お酒が入らなければ、普段の食生活よりヘルシーかもしれないな。
だからといって毎週行きたいなどとは思わないけれど。
その後、近くの社員達とプロジェクトの話や取引先の愚痴などを話していると、1時間くらいで、部長と米村さんが言っていた第1営業部の「木野さん」が現れた。
「ごめんね〜遅くなっちゃったぁ」
20代後半の女性という話は聞いていたが、かなりイメージと違う人だった。
爽やかな水色に花柄模様のワンピース、白いカーディガンを羽織り、七分袖から伸びる腕が、この季節には少し肌寒いのではないかと思わせるような白さだ。
女性同士ということで、米村さんと私の間に木野さんが腰掛けた。
木野さんは、テーブルの端に置かれていたタブレットを取るなり、米村さんと同じ「ドでかチューハイ」を躊躇なく注文した。
「私結構飲むからさ」
彼女はよく喋りよく飲んだ。
ドでかチューハイが水のように消えていく。
彼女は他部署の人間とも仲が良いらしく、私以外の人は彼女の飲みっぷりにあまり驚いていないようだった。
「前はよく來てたよね?開発部の飲み会」
仕切り役の米村さんが木野さんにも話しかけた。
「そーそー!最近こっちの仕事が引き継ぎで忙しくなっちゃって来れてなかったけど、
こっちに異動になるから挨拶したいなと思っててさ。
そしたらちょうど良いタイミングで打ち上げやるって言うから、出張先からダッシュして新幹線一本早めで来ちゃった…あ、君初めてだよね!第1営業の木野です。よろしくー。」
突然話しかけられて、とっさに挨拶を返した。
「開発部の町田です。よろしくお願いします」
程なくして焼き鳥が来た。
違う種類の串が一本ずつ、5本並べられた一皿。
当然、どれを食べて良いか迷う。
しかし、先ほどサラダの取り分けでまごついてしまった私は勇気を出して、
「あの、これ食べたい人いますか?」
と周りに聞いてみた。すると、
「良いんだよー。好きなもん取って食べな。こういうのは早いもん勝ち。」
木野さんが何の嫌味もない、明るい返事をくれた。
周りの男性陣もそうそう、とうなずいている。
「あはは、そうですよね。じゃあいただきます」
焼き鳥の皿が来た時から密かに狙っていた、一本しかないウズラの卵串。
一つ串から抜き取って口の中に入れると、表面がパリッと焼き上げられた卵が口の中で弾け、ホクホクの黃身と出汁の甘みが口いっぱいに広がる。
「あと何か一品頼まない?女子っぽいやつ!」
最後の一個を飲み込み、甘美な卵の世界から戻ってきたタイミングで、木野さんがメニューを差し出してきた。
「あ、そうですね…。チーズリゾットとかどうですかね…あ、でもさっきもチーズ卵焼き頼んじゃいましたね(笑)」
「良いじゃんチーズで。チーズっておいしいよね」
「そうですね、じゃあチーズリゾット頼んじゃいましょうか」
彼女に承諾されると妙な安心感があった。
それからも木野さんはチューハイジョッキを片手に、今までの部署の話や、前の職場の話、時々小学校の頃の話まで、冗談を交えてテンポ良く話してくれた。
彼女は明るく、よく喋り、よく飲んだ。
不思議なことに、全て木野さん自身の話なのに、全く他人の話を聞いてるという感じがせず、相槌が自分の身からスルスルと出てきた。
木野さんがいると、周りの凝り固まっていた雰囲気が柔らかく、明るくなっていく。
私は今まで自分に足りないと思っていた他人の気持ちを考えることや、気遣いをすることが、如何に表面的で、周りをかえって気疲れさせてしまってるのかを思い知った。
そして、これからこちらの部署に移るという彼女と、一緒に仕事をするのがとても楽しみになった。
あっという間に時は過ぎ、店を出る時間になった。
殆ど皆ベロベロになってしまい、三上ちゃんは後藤主任の腕に絡みつき、右隣にいた吉井さんは座ってあぐらをかいたまま眠りこけていた。
米村さんに肩を揺すぶられても吉井さんはなかなか目を開けない。
私が大丈夫ですか?と声を掛けることしかできないうちに、三上ちゃんの腕を振り解きながら後藤主任が
「もう一軒行くぞ」
と吉井さんの耳元で言うと、吉井さんはぱちっと目を開けてのっそり起き上がった。
駅までの帰り道、木野さんと並んで歩いた。
すると木野さんは、こんな話を私にしてくれた。
「私ね、実は夢があるんだ。皆んなにはまだ言えないけど、いつかそれを、絶対仕事にしたいと思ってるの」
「いいですね。木野さんならきっと叶いますよ」
「そうかな。あはは。ありがと。……ねえ、町田さんは、私がいる間はこの会社辞めないでね?」
ふふ、と木野さんがこちらに笑いかけた。木野さんも頬が赤らみ、少し酔っていた。
「え、あ、はい。木野さんがいてくれるなら、辞めませんよ」
「ほんと?よかったー。あ、もう駅か。じゃあ私JRのほうで帰るからここで。また明日ね!」
「お疲れ様でした!ありがとうございました!」
あれだけ飲んでいたのに、木野さんは足取りも軽く駅へと向かっていった。
三上ちゃんはまだ後藤主任にくっついていて、殆ど目を瞑って歩いていた。
木野さんと別れ、私が後藤主任の方へ目線をやると、後藤主任は助けを求めるような表情をしていた。
「ああ町田さん、三上さんと同じ路線だったよね?」
「あ、はい。一緒に帰ります。やばそうだったら最寄りまで送ります」
「いやあ、悪いね。はい」
後藤主任の腕から私の腕へ、三上ちゃんが移った。まるで親から親の腕へ乗り移る小動物の赤ん坊を見ているようだ。
後藤主任が駅の階段を降りて見えなくなったタイミングで、
三上ちゃんは催眠術が解けたようにパッと姿勢を立て直した。
「あーっ!センパイ!お久しぶりです!
えーっと、、てか全然喋れませんでしたね〜!」
「全然大丈夫だよ。早く帰ろう」
三上ちゃんは気まずそうにはしていたものの身体の方はどうやら大丈夫なようだったので、そのまま乗り換えの駅で別れ、帰路に著いた。
一人になるとドッと疲れが押し寄せ、私は家に帰るなり、布団で眠りこけてしまった。
そのまま私は不思議な夢を見た。
今日行ったような居酒屋と同じような店、同じような飲み会の席に私は座っていた。
周りの人達は今日と同じように男性ばかりだったが会社の人とは全くの別人だった。
三上ちゃんがいたはずの席にも、背の高い見知らぬ男性がいて、知らない人たちと談笑していた。
皆思い思いの私服を身に纏っており、私だけ今日と同じオフィスカジュアルのような格好でかえって浮いていた。
しかし左隣には相変わらず木野さんがいて、今日と同じように明るく振る舞い酒を煽っていた。
話を聞いているうち、彼女は淒腕のピアニストだと分かった。
彼女は楽譜があればどんな曲でも一瞬のうちに弾けてしまうという。
そして、夢特有の突然の場面転換がそこで起こり、
私は彼女の伴奏に合わせて、舞台で歌っていた。
客席の様子はスポットライトの明かりでよく見えなかった。
彼女の爪弾く音色は、昨晩の足取りのように軽く、爽やかで、優しかった。
木野さんは私の歌に合わせて伴奏のタイミングをうまく合わせて息をぴったり合わせてくれていた。
今までにない高揚感と緊張感に包まれ、私は今までに出したことのないような声量で気持ちよく歌っていた。
歌が終わり、拍手が起こるかな、というタイミングの寸前で目が覚めた。
そこにはいつも通りの平和な日常が広がっていた。
カーテンの隙間から朝日が漏れている。
「もう朝か…」
渋々起き上がってカーテンを勢いよく開けた。
そういえば今日も仕事なのに皆は普通に飲んでいたんだな…。
木野さんは二日酔いとか大丈夫なんだろうか、と考えたところで、さっきの夢を思い出した。
現実と虛構がごちゃ混ぜになった、奇妙な夢だった。
…何だろう。何か重大なことを忘れている気がする。
何もない私の部屋。テレビと、パソコンと、布団と本棚の他には何もない殺風景な部屋には小さなペット1匹もいない。
私には特に趣味というものがなかった。仕事をして、帰って、寢て、また仕事へ行く。それだけの人生だと思っていた。
仕事は楽しいし、職場の皆も優しい。それで満足だ。
けれど、夢の中にいた木野さんと私(と思しき人物)は違った。
仕事をしながらも、自分が本当にやりたいこと、するべき事は何かを必死で探っていた。
そこには平凡な生活に対する軽蔑と同時に嫉妬も含まれているような痛々しさが含まれていた。
夢の中の二人は別次元の私達だった。
…そういえば、現実の木野さんにも何か夢があると言っていた。
彼女の夢はなんだろう。
ピアニストだったりしたら面白いけれど。
私には、彼女のように叶えたい夢などなかった。
でも、彼女の夢を叶えてあげたいという夢が、たった今、出来た。
まずは、とにかく彼女と一緒に仕事をしてみたい。
夢の中にいた二人のように、息ぴったりの音色を奏でられるかもしれない。
夢の中では私がボーカルで、主役のようになっていたけれど、今度は私の伴奏で、彼女の夢を支えたい。最初はたどたどしいだろうけれど、いつかきっと、彼女の歩く速さに辿り着けるはずだ。
ささやかな人生の楽しみができた私は、少しだけ昨日より軽やかに、朝の身支度を済ませた。
(この物語はフィクションです)
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