世界から離れること

SNSが普及して久しくなり、私の生きる場所はもはや現実世界よりもSNS上の方がメインになっているのではないだろうか。

そんなことは前からじわじわとわかっていたことだが、なかなかツイッターのタイムラインを覗かずにはいられない。

SNSの世界から離れて自由にしているフォロワーさんが羨ましくて仕方ない。

次第にSNSとの距離が近くなる家にいること自体が怖くなり、スマホの画面を見ると吐き気がするようになった。

それでもツイッターを開くことをやめられなかった。

このままではもう自殺しかない。
そう言わざるを得ない証拠がツイッターには十分すぎるくらい揃っている。

「お前のことなんて誰も見ていない」
「そんなことをして何の意味がある」
「死にたいの?なら死ねば。早く死ねよ」

全世界の人々からこう言われているように感じた。
いつ崖に突き落とされてもおかしくない、という恐怖感が常に付き纏って、涙が止まらなかった。


音楽も信じられなくなっていて、テレビもないこの家で気分転換になるのはラジコで放送大学を聞くことだけになっていた。
たまたま開いた心理学の放送では、SNSに疲弊する思春期の子供達の話をしていた。


グループLINEで友達からブロックされたことがショックで不登校になる女子高生。

友達が自分以外の人と楽しく話しているところをありありとSNS上で見せられ落ち込む子ども。

24時間365日、人間関係を休むことができない子どもたちを嘆き、SNSという新たな文明自体についていけず、解決に導くこともできない大人たち。


悩んでいるのは私だけではなかった。
そして私もSNSに参っていた人間の1人だ。


思春期の子供達は感受性が強く、SNSの些細な情報を繋ぎ合わせ、悪い妄想へ発展させてしまうのだという。

私はもう思春期と呼ぶ年ではないが、人より少し感受性が強い自負がある。
子ども達の状況を聞いて、共感するのに難くなかった。


私にとってツイッターは、世界の全てで、ツイッターで反応がもらえなかったら世界から無視されたのと同じであり、世界から追放されることにつながる。

家の外に出てコンビニなどに行くと、店員さんは私を無視せずにこやかに対応してくれる。

それでやっと安心できた。

現実世界でいくら周りから褒められることをしても、ツイッターでは1いいねもつかないような些細なこと。

私はちっぽけな存在。それが現実だ。


本当にそうなのか?


ツイッターが現実ではない、私はもっと、自分を褒めてもいい、自分を褒めても笑われない、自分は無視されない、いいねやフォロワーの数で評価されない

そんな世界があるなら


少しそっちに逃げてもいいのではないか。


私もこのツイッターという世界から離れることにした。
アプリを削除し、布団に潜ってラジオを聴く。


気のせいか、その夜は昨日よりも静かに感じられた。



これが本来の夜なのだ!


夜とは、静かで、あったかい布団の中で、一人っきりでなくてはならない。



常に誰かを監視し、監視され、面白くないことを言えば無視される。

そんな場所に、目を閉じて眠りにつくまで入り浸る必要はない。
そんなのは渋谷のセンター街で寝るのと一緒だ。


ツイッターをしている家の中は、孤独なようで、孤独ではなかった。

孤独とは、もっとあったかくて、一人きりで、誰も介入できない、安心できるものだ。


常に玄関のドアが開いていて、誰かが突然入ってくるかもしれない、窓の外から罵声を浴びせられるかもしれない、
でも来なかったらそれはそれで寂しい。誰かがプレゼントを持って入ってくるかもしれないからとりあえず玄関の鍵をかけないで寝よう。。

…そんなことをして眠りにつくなんて、本来ならあり得ないんだ。

この現実は間違ってる。
世界がおかしくなってるのはこのツイッターのシステムなんじゃないか?


ツイッターはみんなが玄関の鍵を開けて暮らしてるのと同じことだ。
誰かが好き勝手土足で私の家に入ってきて、床のものをぐちゃぐちゃに踏みつけて、そして通り過ぎていく。
「怖いなら家に鍵をかければいい。その代わり、窓の外からなんで鍵をかけたと石を投げるけどな。」

私はうんざりして、スマホの電源を切った。
それと同時に、土足で家に入ってきた人たちの姿も消えた。

きっと、フォロワーさん達の家に土足で踏み入ってた私の姿も、そのうち消えるだろう。


今日はいつもより少し静かに眠れそうだ。
私も、みんなも。

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